母になっても言いたいことやまやまです

ブログ「言いたいことやまやまです」著者のやままが母になってからの日常を綴ります

被扶養者であることに罪悪感を持たない(2024年11月第4週/2歳9か月)

仕事が落ち着いたのをきっかけに、先週半ばごろから、1日の流れを変えた。

娘を寝かしつけながら21時ごろに眠り、4時までには起きる。早寝早起き生活(≒じいさん生活)。

 

当初、私がいなくなると娘が起きて泣くというのがいつものことだった。

泣きながらリビングルームまで歩いてきて「いっしょにねる」と言われては寝室に逆戻り。2度寝がオチ。

 

それが、先週からリビングに来ることがなくなった。

おそらく夫がなだめてくれて、それが繰り返されることで娘も慣れていったのではないか、と思う。

以前はベビーモニターをつけ、娘の気配があれば私が自ら寝室に飛んでいって「背中トントン」をしていたくらいだったけれど、いつからか夫の厚意に甘えることを決意し、モニターの電源を入れることもなくなった。

長らく世話になったベビーモニターとのサヨナラは、罪悪感を断ち切るセレモニーだったかもしれない。

 

「夫は朝から晩まで働いて、私たちを養ってくれているのだ。夜くらい寝かせてやるのが被扶養者のツトメ……」などと思うのはやめた。

私だってワンオペでがんばっている。微々たる量だが仕事もきちんと再開した。

ミールキットに頼ることにしてしまったけれど、土日含め、家事全般は私が担っている。

夫が風呂を洗ったことは1度もない。きっとトイレの壁床も拭いたことがないし、ウォシュレットのノズルを拭いたことだって、ない。

ほしいものの多くは自分の貯金で買っている。

ボーナス月に生活費を振り込んでもらっているので偉そうなことは言えないが、住宅ローン&光熱費系以外は私が出している。

それに……振り返れば結婚式も結婚指輪もナシにしているではないか!

こりゃもう、十分すぎるだろ!!!

 

被扶養者であることを罪だとみなすのをやめた。やめようとしている。

罪悪感に飲まれそうになることもあるけれど、グッとこらえて、「誰にも罪はない」と思っている。

指摘されたときに直せばいいのだ。そのときも、罪ではないので悪びれる必要はなく、シンプルに「わかった、直すね」でいい。

料理にしめじを多用して「もうしめじを入れないで」と言われたら、「わかりました」でいいのである(これはなんだか根に持っているので、まだまだ修行が必要だァ)。

いま、そういう「思考の練習」をしている。

 

この時期、寒いことと、抜き足差し足で過ごさねばならないことを除けば、とにかく静かで最高だ。すごく安らぐ。静寂最高。

なんかよくわからないけれど、朝一番(4時くらい)にコーヒーを飲むと快便なのもいい。その対応も抜き足差し足でやらなければならないことだけが難点か。

 

15分の瞑想も、ダイエットに励むかのようにがんばっている。

とにかく日中、いろんなことを考えすぎ。たぶん脳みそがヒートアップして、いらない心配などが増えている。それで、始めた。

 

▼michi meditationさんに2週に1回くらいの頻度でお世話になっています

 

別に何が変わったという気もしない。先生にも素直にそう言った。「そういうもん」とのこと。先生の淡々とした、でもあたたかい感じが好き。

 

子どもを乗せて自転車に乗る勇気がなく、いまだにベビーカーの日々。

初めて、ベビーカーごと転倒した。

道のちょっとした段差を乗り越えられず、バランスを崩してベビーカーも私も転倒。

荷物も飛び散り、周辺にいた方が老若男女問わず駆けつけて助けてくれて、本当に助かった。

娘は口を切って出血。大泣きしていたが、抱っこしているうちに泣き止んでくれて、口以外は痛くない、アイスが食べたい、とのこと。

 

転倒した場所がたまたま、児童館の近くの住宅地。車の通りもほとんどなく、娘の負傷具合も含め、不幸中の幸運が重なった。

長らくベビーカーを押して、その生活に慣れきって、「このくらいの段差はいけるだろう」と無意識のうちに判断して強行突破したのがいけなかった。

転倒した瞬間の映像がなんども蘇る。

娘はその若さでどんどん回復しているが、傷跡を見るたびに胸が痛む。

「命を預かって歩いている」ことを忘れていやしなかったか?

台車で荷物を運ぶような感覚をどこかに抱いていなかったか?

やっぱり「慣れ」は怖い。

 

とはいえ人は慣れてしまう生き物だし、慣れなきゃやっていけないことはたくさんある。

だから今回のような「気をつけろよ」のサインがあったら、それを心に刻みつけたい。小さいサインを見逃さないようにしたい。